『舟を編む』が人々に受け入れられた理由

三浦しをん原作、映画『舟を編む』を今更ながら見た。めんどくさいのであらすじをWikiから引用する。「『玄武書房』に勤める変人編集部員、馬締光也が新しい辞書『大渡海』の編纂メンバーとして辞書編集部に迎えられ、変わり者の編集者たちが辞書の世界に没頭していく姿を描いた作品。」(引用終わり)

 

 舞台は出版社の辞書編集部。ひたすら辞書を作るための地味な仕事にスポットライトを当てた作品。誰しも辞書を一度は手にしたことはあろうが、憧れや注目とはかなり離れた場所にある。子供の頃に「辞書編集者になるたい」なんて思ったことがある人は、人口の0.0001%も居ないんじゃないだろうか。

 

こうした地味な舞台設定にも関わらず、この映画は非常に高い評価を受けている。本屋大賞を受賞した原作とともに映画も数多くの賞を受賞しており、来年のアカデミー賞最優秀外国語映画部門の日本代表作品にも選ばれている。その評価は日本にとどまらず、香港では異例のロングラン上映を記録しているという。

 

僕はこの作品がなぜ人々に評価され受け入れられたのか考えてみた。この作品のキーワードはズバリ「疎外感」だ。すると、現代人の抱える疎外感に訴える作品の主題設定がボンヤリと浮かび上がってくる。『舟を編む』は「労働からの疎外」、「ディスコミュニケーション」、「つながってるはずなのにどこか寂しい」、こうした悩みや悲しみにスポットライトを当てた作品なのだ。

 

主人公馬締はいわゆるコミュ障の若手営業部員。彼は営業部のお荷物であったが、定年間近の辞書編集部ベテラン社員に類まれなる言語センスを評価され、その後継として編集者として白羽の矢を立てられ…、というストーリー。

 

僕たちの多くは「自分らしく生きろ」、「個性を活かせ」と何度も何度もお題目のように刷り込まれて育ってきたのではないだろうか。しかし、社会に出て会社員にでもなろうものならそんなことはお構いなし。希望部署の調査など合ってないようなもの、その時々の社内の人材ニーズのあるところに数合わせで配属され、とにもかくにも結果を出すことだけを求められる。

 

はじめは嫌々ながらも日々に追われる中で、あの初々しい希望はどこへやらとただ何となく自分の仕事をこなしていく。「自分にあった仕事」が他にあるんじゃないかという思いを心の何処かで抱いている人はきっと少なくない。マルクスの「労働からの疎外」という概念は今も決して色褪せることはない。

 

そんな人々にとって、たとえ地味でも自分の能力を余すとこなく発揮でき、しかも本気で打ち込める仕事に巡りあうことが出来た馬締は輝いて見えるに違いない。

 

馬締は不器用な人間だ。リア充の対極に位置する、極めて内向的な人物である。会話で人に自分の思いを伝えることが出来ない。いまの就職活動だったら絶対に出版社はおろかどこも入れてくれないだろう、と思ってしまうくらいの重度のコミュ障だ(舞台は90年代中盤からスタートする)。彼は常に他者との疎外感を抱えていた。彼にとって存在する他者は、下宿のおばさんと下宿にうず高く積まれた本たちだけだった。

 

しかし、馬締は辞書編纂という言葉と向き合う仕事を通して、他者とも向き合うようになる。言葉を通じて自分の意志を伝えることに真剣になっていく。自分の思いを人々に伝える道具として言葉と向き合うようになっていく。この成長の過程が再び観客の心に響くのだ。

 

馬締ほどのコミュニケーション弱者でなくても、疎外感を日常で感じないという人間はいないだろう。21世紀になって、人々はウェブによって爆発的に増加した情報に囲まれ、スマホがあれば誰とでも即座にメッセージをやりとりできるようになった。利便性が人々の関係をある意味「密」にした一方で、言葉を交わしても理解しあえないディスコミュニケーションの場面に出くわすこともずいぶん増えた。人々の埋まらない溝。それはツイッターの炎上やヤフートピックスのコメント欄、Facebookでのやりとりなどを見れば、火を見るより明らかである。

 

こうした現代人の抱える疎外は、言葉の問題から発生しているとも言える。テクノロジーはコンテンツの流通コストを下げ、人々の関係をどんどん密接にしていく。しかし、入れ物の性能が向上するばかりで中身は逆に劣化してしまっているのかもしれない。

 

馬締は、こうした時代の変化の中で生まれてくる疎外の中で、その原因でもある言葉に真正面から取り組み、疎外を克服していく。辞書編集というニッチにも見える作品の舞台とストーリーは、単なる「仕事ハッケン伝」の枠を超えて、現代人の誰もが抱える問題に切り込む力を持っている。